S翁にみる文学の迫力
S翁。推定年齢75歳。白髪の、痩せた老人である。補聴器をつけ、杖をついている。いくつかの臓器を手術したとも聞く。
長らく人文書の編集をしていた。数年がかりで辞書や全集の編纂をしたこともあるようだ。その名残だろうか、気になる事柄があれば関連資料を集めて丁寧に整理し、小さな文字で何やら書いた付箋を貼り、細かく帳面をつける。その作業のマメさ、いかにも手だれの編集者といった趣き。
飲めば、話の端々に文士や詩人の名が出てくる。漂う昭和文壇の香り(ただし、同じ話がループすることもある)。剣ではなくペンで勝負してきた人の、知性の迫力。こういう人が、物静かに、誠実に、わが国の出版文化を支えてきたんだなぁ。
……が。若い頃の武勇伝がすごい。ある晩、酒場で嫌なやつと出会った。そいつの物言いがどうにも我慢ならず、殴ってやったという。だが、相手はひょいと体をかわし、S翁が思い切り殴りつけたのは壁であった。手の骨を折ったという。南無三。
おそらくそれから数年経ったであろう、ある夜。また酒場で、また別の、気に障ることをしつこく言い募る男と会った。手を怪我してはいけないと自制し、足で蹴りつけてやった。すると今度は、足を骨折してしまったという。嗚呼。
とにかくとにかく喧嘩が弱いのである。でも、腹の虫がおさまらなければ、たちまちペンを捨てて、素手で立ち向かう。その話を聞いて以来、わたしはS翁が大好きになってしまった。それが文学じゃないか、とすら思う。最後は、頭ではなく体で生きる。理屈じゃないんだ、感情のほとばしりなんだ。生とは、究極、「熱」なのだ。
で、わたしはS翁に誘われればどこへでもついて行く。それがまたスリリングだ。57歳で運転免許をとったというS翁は、ハンドルを握ると飛ばす飛ばす!耳に補聴器、目にサングラス、口癖は「好きな速度は120キロ」。S翁の車で乗り付けるのは、文学館、美術館、文士の生家跡、ゆかりの風景…。なんとなく、国文科の学生だった頃にゼミの先生と行った文学散歩を思い出す。
そういえば、あの頃好きだった詩集の編者の欄にS翁の名前があったっけ。その人と、のちに出会って(酒場で)、ふたりでドライブする仲になるなんて思いもしなかった。人生の展開はまことに不思議である。